東京駅は、1882年新橋・上野両停車場を結ぶ市内貫通高架線の東京市中央停車場として、計画されました。
1903年に辰野金吾博士に設計が依頼され、6年の歳月を掛けた建設工事を経て竣工し、1914年12月20日に「東京駅」と名称を改め営業開始しました。
1923年の関東大震災でも駅舎に被害はでませんでしたが、1945年の空襲による火災に寄り、ドーム部や屋根等が消失してしまいました。
同年、復興工事が着手され、1947年2階建ての駅舎として完成。
2003年には国の重要文化財に指定されました。2007年まで60年首都東京の表玄関となり守り続けました。
今回の復原工事により創建当時の優美な赤レンガ駅舎として甦りました。
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辰野金吾(たつの きんご)(1854~1919)
工部大学校(現在の東京大学工学部)卒業。工学博士、帝国大学工科大学学長、建築学会会長。
ヨーロッパで西洋建築を学び、日本銀行本店を始めとして日本を代表する建築物を設計し、近代日本をリードした。
唐津藩(佐賀県)生まれ。
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被災したドーム
1945年の空襲によって消失した屋根、ドーム部分、内装等の復興工事が行われましたが、安全性への配慮から、南北ドーム部の3階建て部分が角屋根化され、駅舎も3階建てから2階建てに縮小されてしまいました。
当時、南北ドーム部のホールの天井をいかに修復するかの検討を重ねた結果、創建当時の意匠を再現する事は、難しく、東京工事区建築助役の今村三郎氏(東京美術学校・現芸大卒)のデザインが採用され実施されました。
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ジュラルミンドーム格子の図
この、南北ドーム部の内部の修復には、ジュラルミン板が用いられました。
ジュラルミン板は、軽量・高強度であることや、天井材として雨漏れや剥落の危険が少ないことなどの利点があり、また、終戦で航空機の製造がストップされたため入手が容易になったことなどの点から、最適材と考えられたと語られています。(資料:「戦災復旧工事の回想」松本延太郎 1988年4月「建築文化」)
60年の永きにわたり、南北ドームを支えて来たジュラルミンパネルは今回の復原工事により、見る事はできなくなりましたが、昭和、平成の時代を通じて、首都東京を代表するシンボルを支えてきました。
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創建時内観
戦災復興工事 内観
保存・復原工事 内観
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東京駅丸の内駅舎 南北ドーム大型庇に採用された
「アルミハニカムパネル」
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東京駅丸の内駅舎の保存復原工事が完了して、10月1日にグランドオープンしました。この駅舎の南北のコンコース、および東京ステーションホテルのエントランスなどに「アルミハニカムパネル」が採用されました。
「アルミハニカムパネル」は、東京スカイツリーのエレベータシャフト部のや、展望室上部の外壁材(カーテンウオール)として利用されるなど、卓越した耐候性・耐久性、高剛性を有することが評価され、今般の歴史的建造物の創建時の庇の外側に付加されて、新規に採用されることになりました。
創建時の庇と、「アルミハニカムパネル」の新規の庇は、ガラスパネルで連結されており、ガラス越しに、東京駅丸の内駅舎の姿を望む事ができる様になっています。 |
ドーム庇
創建時の庇
・南ドーム庇:残存する鉄骨梁のみを残し、屋根を創建時仕様の銅板瓦葺きで復原しました。
梁飾りは、姿を再現しました。
・北ドーム庇:躯体および屋根は再現するが、創建時のものと区別することから色や質感を変えるなどの処置を行いました。
新規の庇
・付加された新しい庇は、アルミハニカムパネルを使用し、軽快でシャープな印象としました。
・創建時庇の外側にガラスで縁を切った上で現代的庇を付加した。これにより、ガラス越しに創建時の姿を望む事ができます。
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創建時の庇の屋根には、大阪住友製鋼所の銅板が使われていました。 |
絵画:東京ステーションホテル(小野田滋氏)
創建時の庇を描いた絵画
絵画:東京ステーションホテル
(恩地孝四郎氏)
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